敷根物語


敷根氏と長尾城 敷根の伝説 剱神社と医師神社 廃仏稀釈と法円寺 麓と浜町

敷根氏と長尾城

 「国分郷土誌」や江戸時代末期に書かれた「三国名勝図会」という本によると、清和天皇(源氏の祖)の末流で土岐四郎左衛衝国房(どきしろうざえもんのじょうくにふさ)という人が平安時代末期の元暦元年(1184年)に敷根の地に来て、領主となり、その子土岐賢太郎頼房が敷根氏と名乗り長尾城に拠ったといいます。

 16世紀(戦国〜安土桃山時代)に反島津の行動をとったり、上井氏(上井城主)・廻氏(福山廻城主)らと小村(今の広瀬)などを焼き払ったりした事もありましたが、その後島津氏に降り、島津貴久の蒲生氏(蒲生城主)攻めに従軍、その協力のおかげで自領敷根を安堵(敷根を領することを許可)されたり、14代頼賀のとき肝付氏が敷根口に攻め入った時これを長尾城で防ぐなど戦いに功あったため、重富・帖佐(今の姶良町)の土地の一部をもらったりしたが文禄検地の際、頼賀は垂水の田上へ移封され、(文禄3年・1594年)田上城へ家族・家臣を従えて移りました。この時、敷根の一部は石田三成の知行分となったようです。なお、田上城へ移った敷根氏は立頼の時、慶長4年(1599年)高隈へ転封その後、垂野城を居城として慶長19年(1614年)市成を領し、子の久頼の時から市成殿と呼ばれました。この時島津家久の娘を嫁にし、島津を名乗る事を許されました。その後、敷根氏の子孫である島津久芳が荒れ崩れていた祖先の墓を長尾城の麓に集め六地蔵を建立し冥福を祈ったのだそうです。その六地蔵と墓石が今も杉林の中に残っているそうです。

 長尾城は頼房から頼賀まで(平安時代末〜安土桃山時代)の約400年間、敷根氏の居城でありました。福山町境、亀割峠の近くで現在の塵焼場の裏の山上にあったもので、天険の山城です。四方が険しい崖になっており容易に登ることは出来ません。山上の周囲約21町(2300メートル)。現在。本丸・西の丸・三の丸の跡や馬場(馬術訓練場)や宅地の跡が残っているといいます。

 また、長尾城の大手口(城の正門)の西にある陣の崖(ひら)は長尾城の添えの城で塹(ほり)の跡があるそうです。

肝付氏が敷根口に侵入した時、このあたりで清水郷士・有馬六左衛門が戦死したという記録が古文書に残っているそうです。

案 内

夏はかやが生い茂り山道もはっきりわからないので、出来れば冬に登った方がよいでしょう。塵焼き場正門より200メートルぐらい下から登と大手口から西の丸跡に行けます。もう一つは10号バイパスの上之段バス停と下朴木バス停の中間あたり、遅い車の登坂車線の切れるあたりから海側に出ると楽をして本丸跡に出られます。しかし城跡は危険ですので気をつけるように。

 

敷根の伝説

@若尊鼻と日本武尊

若尊鼻は日本武尊が熊襲(南九州にいた大和朝廷の命に服しなかった人々のこと)をせいばつに来た時に上陸した所と伝えられています。岬の岩穴にを祀った若尊神社があります。

 ここに上陸された日本武尊はけわしい道で進めなかったので今の高橋川の上流に大きく高い橋を架けられた。これが高橋川の名前の由来であります。その橋を通って剣岩の所に出て、ここで木の根を枕にして寝られたので敷根の名が出たといわれています。

それから、ここで剣を研ぎ西北の熊襲の勢いを眺められたと言われています。「国分郷土史より」

A門倉の大蛇のこと

門倉薬師(今の医師神社)の西下は国分市の水源地となっていますが昔から清水が湧出し年中かれることなく、しかも水質が良く温めて飲めば百病を治すといわれていました。また、この辺りは杉の大木に囲まれていたのですが、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従った島津義弘の御座舟

(ござぶね)・薬師丸の船材はこの山の杉だったそうです。

 ・横山家の古文書によると、島津義弘の朝鮮渡海用の御座舟を作るとき敷根門倉薬師の山から船材を伐採したのですが、大蛇が出てきてその木に巻きつき、また色々の生き物が出てきて種々の不思議なことがおこったので、きこりどもは恐がり山に入ることが出来ませんでした。

 その事が領主義弘の耳に入り義弘の命で盲僧の修験者に祈とうさせたところ、たちまち怪奇がなくなり伐採が進んだと言う言い伝えが残っています。「国分郷土史より」

 

B縄掛松と人魂のこと

 その昔、長尾城大手口にある一本松を縄掛松と言っていました。この松から西を外囲(そとくるわ)・東を内囲(うちくるわ)と呼んでいました。

 毎年八月十五夜には月明かりの下で、この松に縄を掛けて城中内外の人々二手に分かれて綱引きをしました。なかなか勝負がつかず熱中のあまり時には死傷者もでるしまつだったそうです。

 この事が原因でしょうか?今でも八月十五夜になるとこの松の辺りに人魂が出たり不思議な事が在るという事です。「薩隅日地理纂孝より」

 

C桂姫城と桂姫のこと

上之段の長野谷山と平尾山の両山を桂之尾といい上古桂姫の居城である桂姫城があった所だそうです。高さ7.2メートル・周り3.6メートルの大樹「かつらの木」があり人々は霊樹として切らなかったと伝えられています。
桂姫というのは神功皇后三韓出兵に従軍し武功あって皇后からほめられ勝浦姫の名を賜った人だそうです。その妹の一人がこの地に宅地をもらい居住した跡が桂姫城だというのです。(薩隅日地理纂孝には桂姫が敷根出身だったとあります)「三国名勝図会より」

 

剱神社と医師神社

 昭和十年鹿児島県神職会編集の「神社誌」や「薩隅日地理纂孝」によると、大隈国贈於郡敷根郷の総鎮守は剣大明神で祭神は天児屋根命・日本武尊で、御神躰

(ごしんたい)木像、祭祀九月九日と十一月初丑(うし)。明治以降「郷社剣神社」となり祭神は日本武尊・剣彦命・外五神。明治43年10月立主神社・菅原神社(敷根氏時代最も大切にされたお宮)・大主神社を本社に合祀したと記されています。この剣神社は上井にある韓国豆峯神社(からくにうずみねじんじゃ)と関係があるらしく、景行天皇の熊襲退治の伝説との結びつきもあるようです。宮司の池田文哉氏の話にによると、剱岩(つるぎいわ)の上にあったものが現在地に移転したのだそうです。

 医師神社は、もと薬師堂といい「日向国 通路門倉坂の北側にあり」と記されていますから昔の街道が今の門倉部落の国分市水源地周辺の坂道(門倉坂という)であったわけですが、この交通の要衝に薬師如来という病気や災難を救う仏が祭られていたわけです。「薩隅日地理纂孝」では神か仏かの区別がはっきりとしない通称「門倉薬師」とありますが、これも明治以降医師神社と名称を変え北辰神社を合祀したのだそうです。

 この薬師様(医師神社)には興味ある言い伝えがあります。「三国名勝図会」によると、本尊の木像は高さ三尺(約90センチ)ばかりで伝教大師の作だったが盗まれて今のものは天明年間(1780年代)に宮崎県高城郷宮原村の仏工が寄進したものだという事です。伝教大師といえば歴史の教科書にも出てくる平安前期の最澄

(さいちょう)のことで比叡山に延暦寺を建て天台宗を開いた有名な僧のことです。

 もう一つは慶長四年(1599年)宮崎県莊内地方の伊集院忠真を島津氏が攻めた時、出陣前の兵士たちがここのお堂に集まり、いろいろと各人の志を板壁に書き記した、だが遅れて来た平田三五郎宗次という美少年で有名な16歳の少年武士は書く場所がなかったのでに持ち上げてもらい高い所に

かき置きは 片見(形見)ともなる 筆の跡 我は何くの 土となるらん

と和歌をかき、結局は戦死した。しかしそれらを書いた板壁は長く残っていたので鹿児島あたりの少年達も遠路来て見る者が多かったと。また平田三五郎宗次の題詠を見る者、老人も少年も皆、感激の涙を流したと。残念ながら今(江戸末期には)は消えて見えなくなっているとの事です。薩摩の武士の領主島津氏に対する忠誠心がわかります。

 薩摩藩には三つの薬師様が在りました。その一つが門倉薬師でたの二つは宮崎県高岡の法華嶽寺薬師と姶良町帖佐の米山薬師です。薬師様というのは、もともと大陸から伝わって来た医療薬剤の仏様ですから明治初年の廃仏毀釈の時難を逃れるために医師神社とし神様になったのでしょう。こういう例は苗代川の神社にもあると十四代沈寿官氏は言っています。

 剣神社は郷社で医師神社は枝社だったと記録にあります。

 

城廃仏毀釈と法円寺

 仏教が日本に伝来したのは六世紀の事ですが平安時代までは天皇をはじめ貴族を中心とする特権階級だけのものであり、時には国の政治に利用され時には加地祈祷

(かじきとう)を行って病気を治すのに利用されたりもしました。

 大隈の国の国分寺は奈良時代、八世紀の中ごろ垣武天皇の命で建てられたものですが、一般民衆が仏教を信ずるためのものというよりも仏教の力で国を鎮め災害を防ぎ幸福を招こうとする政治的な意味をもったものでした。

 仏教が一般民衆のものとなったのは、鎌倉初期(12〜13世紀)法然や親鸞一遍や日蓮などによって、わかりやすく説かれた新しい仏教がおこってからです。そのうちが親鸞開いた浄土真宗(一向宗とも言われた)は農民階級にも広まり、多くの信者をもつようになりました。ところが薩摩藩では安土・桃山時代(

16世紀)頃から一向宗禁制の政策がとられ厳しく取り締まられたのです。理由については色々の説がありますが、大体としては、一向信者が僧侶をもてなしたり、布施・賽銭を行う事で領内の財貨が他へ流出するのが領主にとって不都合だったからとか、近畿地方で多発した一向一揆が領内に起こるのを未然に防ぐ意味もあったそうです。

 江戸時代敷根には真言宗の福如山常光寺蓮持院と曽洞宗の寿永山瑞慶寺

(じゅえいさんずいけいじ)がありました。この頃は神仏習合といって神と仏は同じと考えられ、お宮とお寺が同一場所にあるのが多かったのです。そしてキリスト教信者でないことの証として、お寺に宗門人別帳というものがおかれ、戸籍の役目もしていたのです。ところが国学が発達し国家主義と神道が結びつくようになると、神仏分離・廃仏毀釈の運動がおこってきたのです。薩摩藩は明治維新の中心的な役割をしましたが、そのためにこの廃仏毀釈も徹底したものになったのです。鹿児島県下の寺という寺、仏像から仏具にいたるまで、ほとんどが壊されたのです。明治元年(慶応四年1868年)からの数年間はひどいものでした。奈良のお寺にも劣らなかった坊ノ津の一乗院をはじめ各地の寺は姿を消したのです。敷根の常光寺も瑞慶寺も壊され今は跡形もありません。

 明治も

10年代になると文明国に習おうと信教の自由が許されました。すると今まで禁止されていて仏教が急に勢いをもり返してきたのです。明治22年憲法発布により信仰の自由が保証されると17世紀以来禁止されていた浄土真宗も廃仏毀釈で壊されていた仏教各宗派・寺院もいっせいに布教活動を始めました。お寺や教会も建てられたのです。

 鹿児島では浄土真宗の布教活動が盛んで、熱心なお坊さんが居た事と、一向宗禁制時代に隠れて念仏を唱えていた人々が多かったせいもあって県下一円に広まりました。

 現在敷根には覚応山法円寺というのがあります。これは浄土真宗西本願寺派の末寺です。藤原隆乗氏によると、大分県出身で平家の子孫だった祖先の人が明治

35年敷根の地に説教所を設けたのが始めで、大正五年に法円寺として独立したのだそうです。

 

麓と浜町

 麓

(ふもと)というのは、昭和295月、国分町と合併するまでの旧敷根村のですが、もともと麓というのは薩摩藩の113外城(とじょう)のことで各郷の地頭仮屋は、この麓に置かれたのです。だから麓は郷の政治の中心地であり、武士階級が多く住んだところです。知覧の武家屋敷は町並み保存で国の指定を受けていますが、敷根の麓も大体は同じなのです。

 県下に麓という地名はいくつもありますが、現在の市町村役場は大体この麓にあるのが多いようです。伊佐郡の羽月の麓・本城の麓・姶良郡重富の麓・肝付郡の牛根の麓などは、町村合併のために今は役場の所在地とはなっていませんが、今でも役場の有る所は肝付郡の吾平町の麓・串良町の麓・出水郡の高尾野町の麓・薩摩郡入来町の麓などです。

 薩摩藩では、鹿児島本城の近くに城下士を住まわせ、俸禄だけでは食べていけない下流の武士は郷士として麓(江戸時代前期には外城といった)に住ませ農耕にも従事させもした。

 敷根の麓は敷根郷における政治・経済・行政・教育文化の中心地であり、日州街道を守り宮崎方面から鹿児島本城に攻め入る敵を防ぐ役目の郷士たちが住む地域でもあった訳です。明治初頭には士族

926人が住んでいたという記録もあります。

 浜町というのは国分町との合併まえの大字

(おおあざ)ですが、これも江戸時代薩摩藩が漁村として指定してきた地域という意味をもちます。封建時代に米を年貢として税金代わりに集めていたので、米を作る農民が勝手に漁民になっては困ったわけです。だから少数の漁民だけを許可して世襲させたわけです。この漁民だけが住んだ地域を浦浜とか浜町と言ったのです。敷根の浜町は「藩法上公認ところではない、藩法外で臨海地に発達した町場である」と鈴木 公 著「鹿児島における麓・野町・浦町の地理学的研究」にあります。麓の東側から高橋川の河口に位置しているようです。

 このように薩摩藩では、城下士は本府鶴丸城の近くに、城下士のための商品を取り扱う町人は下町に、郷士のために商品を売る町人は野町に住ませ、藩の財政の基本になる米を作る農民は百姓として農村(在

(ざい)といった)に住ませたわけです。

 本富安四郎の「薩摩見聞記」の一部で明治初期までの人々の生活を想像してみてください。

「平民は財産なし、されば今各外城に至りて見るもの幾百戸士族が周りを取り囲める其の中に多きは数十戸、少なきは五戸・三戸の商家がいと見すぼらしく立ちたるのみ、全くただ士族の御用足しにして、その一定したる少数者の必需品を調達するに過ぎず、更に富を致し家を興すの機会もなし、その日々の米薪

(こめたきぎ)の代を得ば先(ま)ず仕合(幸)せと思えるまでなり」

 藩法で公認された浦浜は海上防備の役目ももっていたので、商人よりはよかったようです。